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発達障害の知識は広まった。でも、生きやすくなったのだろうか


「私たちは知識の力をのんきに信じ、情報が普及すれば環境がよくなりそうに思っていました。まさか名前が記号として陳腐化し、知られた名前を石や棒みたいに武器にされる日が来るなんて、予想してませんでしたからね。」 ニキ リンコ


毛布をもった困った感じの猫

 20年ほど前、発達障害という言葉は、今ほど一般的ではなかった。

学会では「発達障害」がホットなテーマとして扱われ、関連するシンポジウムには人が入りきれないほど集まっていた。

ASD、ADHD、LD——。それまで「変わっている」「落ち着きがない」「空気が読めない」と曖昧に扱われていたものに、名前がつき広まっていった時代だった。


あの頃、私たちはある種の希望を持っていた。


 発達障害の知識が広まれば変わる。理解が進めば、生きづらさは減る。特性を知り、環境調整を行い、周囲が受け入れることができれば、発達障害の人たちはもっと生きやすくなる。本気でそう信じていた。


 もちろん、実際に変わった部分もある。支援制度は増えた。合理的配慮という言葉も浸透した。診断を受けることで、「自分は怠けていたわけではなかった」と救われた人もいる。

けれど、今の現実を見ると、どうしても複雑な気持ちになる。


 幼い頃から「何かしらの診断」を受ける子どもたち。

本人がまだ自分を理解する前に、「あなたはADHD」「自閉スペクトラムだから」とカテゴリー化されていく。


 学校では「あの子はADHDだから仕方ないよね」と、公然と語られることもある。配慮の言葉のようでいて、その実“普通とは違う存在”として扱われている場面も少なくない。


 SNSではさらに顕著だ。少しだけ心理学や精神医学の言葉を知った人たちが、他人を診断する。

「これASDっぽい」「絶対ADHD」そんな言葉が軽く飛び交う。


 本来、人を理解するためにあったはずの知識が、いつの間にか人を分類し、切り分け、時には揶揄する道具にもなってしまっている。


 知識が広まること自体は悪ではない。

むしろ必要だった。昔は「努力不足」「親の育て方」で片づけられていた苦しみが、ようやく可視化されたのだから。


でも、知識はそれだけでは人を救わない。


診断名を知ることと、相手を理解することは違う。

特性を知ることと、人として尊重することも違う。


 「発達障害の理解」という言葉が広がる一方で、人を見る視線が逆に固定化されてしまった部分もあるように感じる。


では、これから何が変わればいいのだろう。


診断を増やすことなのか。

さらに知識を広めることなのか。

支援制度を整えていくことなのか。


正直、簡単には答えが出ない。


 ただ少なくとも、「理解が広まれば自然とうまくいく」という、あの頃の楽観的な期待だけでは足りなかったのだと思う。


 知識は人を救うこともある。でも使い方を間違えれば、人を傷つけ、分断し、ラベルの中に閉じ込めることもある。


 だからこそ今、必要なのは、「発達障害を知ること」そのものよりも、その知識をどう社会の中で扱うのかを、考え続けることなのかもしれない。


私自身、まだ答えはわからない。


 それでも、情報を集め続けること。現場の声を聴くこと。当事者の方や支援者の方と話すこと。いろんな立場の人同士で話し合うこと。

何が助けになり、何が傷つけになってしまうのかを、あきらめず考え続けること。


 すぐに正解が出る問題ではない。だからこそ立ち止まらず問い続けなければいけないのだと思う。



ハピネス発達心理相談室



【参考文献】

ニキ リンコ「大喜利エクソダス」(2026)現代思想, vol.54-6, 05, p20-24.


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